言葉のゆびさき

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フィリップ・K・ディック 『フロリクス8からの友人』 大森望 訳 (創元SF文庫)

フラワー・メイです。フィリップ・K・ディック『フロリクス8からの友人』を読みました。

 

 

 

 

たくさんの言葉を読み飛ばして、私たちが手にするのは、諦めに似た慈愛である。ディックが示すハードボイルド仕立てのSF小説の着地点は、オカルティズムに傾倒した男の20世紀型現代詩だった。

超発達した知能を持つ「新人」、テレパスなどの超能力を持つ「異人」に支配された地球。これに反旗を翻し、人口60億の被支配階級「旧人」の英雄となったプロヴォーニ。2つの勢力図は、プロヴォーニが銀河系の彼方で出逢ったフロリクス星系人によって、大きく書き換えられる。主人公に選ばれたニック・アップルトンーー彼は物語の大潮に巻き込まれた、凡なる一般人のサンプルに過ぎない。

タイヤの溝掘職人という詐欺紛いな生業で暮らし、やがてチャーリー≒シャーロットという両性具有的な少女に惹かれて妻子を捨てる。プロヴォーニの帰還に、勝利に酔いしれながら、知能を奪われて白痴同然となった新人に同情を寄せる。そのきっかけは、未知との遭遇という年表的なイベントでは決してない。非常にエゴイスティックな問題ーー自身が欲情したチャーリーの死だ。シンプルな罪の呵責を背負った彼は、しみったれた隣人愛でこの作品にピリオドを打つ。

『電気羊』を読んだのは何年前だったろう。たしか映画と並行して読んだ。SFに魅力を感じていなかった頃なので、筋を追うので精一杯だった。しかし、その中に宗教が描かれていたことは、朧げながら覚えている。

SF。この言葉に私はとらわれ過ぎていた。科学技術の進歩を先駆的に書くことではなく、現実のさまざまな歪みを顕在化することがSF者の本願ではなかろうか。そうでなければ、マンネリズム化したSF的な小道具はせいぜいファッションとしてしか機能しない。

であるから、SFの大きな主張は、自ずと社会性を帯びてくる。政治への言及は言わずもがな、宗教まで想像力の手が触れんとするのは、自然な成り行きであると思う。

SFの勃興は、神の不在とリンクしているのではないだろうか。個人主義を突き詰めると、現代においては大抵フロイト=ユング集合的無意識に回収される。ディックをはじめ、彼らが心理学を熱心に取り込んだのは、宗教と向き合っていたからだろう。これを忘れてしまえば、三文文学に成り下がるばかりだーーつまり、不能ないし思考停止した主人公が累々たるゴミ山を形成する。

本作の登場人物は、皆一様にエゴイストだ。英雄然としたプロヴォーニもまた例外ではない。彼は「旧人」に救いを齎したかもしれない。が、支配階級を根本から覆すその行いは、結局のところ復讐が動機だった。「新人」にも「異人」にもカテゴライズされない、いや自らその範疇に入ることを嫌った彼は、自己保存のエゴという勇気を最大限に振り絞り、太陽系を飛び出した。結果、フロリクス星系人の協力の元、支配階級の異能力ならびに脳神経を否応なしに除却した。

プロヴォーニは、本作中でも書かれているように、英雄でもあり、テロリストでもある。いうならば資本主義と共産主義の対立がここにはある。そんなことは容易に想像でき得るであろう。ディックが書きたいのはその先だ。共産主義者の夢見る英雄物語は甘いだけのカクテルに同じ、よしんばその理想が叶えられたとして、後始末に追われる私たちはどうなるのか。

主人公ニックに用意されたブレイクスルーはチャーリー≒シャーロットだ。この両性具有的な少女は、ディックの囚われ続けた「双子」の象徴であり、先に述べた社会構造の両面を繋ぎ合わせる役割を持っているといえよう。あえて言えば、本作におけるキリスト(救世主)はプロヴォーニではなく、チャーリー≒シャーロットだ。

では、彼女を死に導いたニックは、イスカリオテのユダなのだろうか。それほど単純な話でもない。ニックの名前は、サンタクロースのモデルとする説もあるミラのニコラオスが語源だ。この逸話が物語っているように、ニコラオスは弱者を救う者であった。しかし、ファミリーネームであるアップルトンはどうか。俗説ではあるが、林檎は智恵の実、禁断の果実だ。ニックにも両面性が含まれていることがわかる。

まあこうした言葉遊びはともかく、本作の着地点は中庸にある。SF的な小道具を取り払って、フラットな地平に立つということ。平凡な答えかもしれない。

SF。ポップカルチャーであることを堂々と胸を張るそれは、個人主義を貫いた上で容易に社会に帰属することを可能とする。その前向きさは愚直であろうと、私たちの未来を明るくしてくれやしないか。

今、私はこの小説の幕を引く、くそったれなヒューマニズムに感服してしまっている。私は、神の死を嘆く下地は知らない。清潔な教会は知らない。はたまた、超常現象で社会を呪う術も知らないし、社会に全肯定されるようなシステムも知らない。

本作は、知能を失った「新人」がキリスト像で遊戯にふける場面で締めくくられる。人間を束ねるイズムから切り離されて、罪の意識と優しさを胸に灯す「旧人」たちの姿は、さながら神性を喪ったイエスのようだ。私はこういう人たちの腕に抱かれていたのだと思う。呆れた。私は結局、無神論に引き返すのか。

しかし、ディックもまた、同じ輪の中をぐるぐる回っていたのだろう。校庭のトラックの内側で落書きでもして悦に浸っていた背中を、蹴り飛ばされたような気分だ。白い体操着を踏みにじった砂の上を私も走り出したい気持に駆られる。くそったれ。こんな小説を読んでこんな感情を抱くのはくそったれだからだ。

 

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バイバイ。