言葉のゆびさき

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手塚治虫『人間昆虫記』(COMコミックス増刊)

フラワー・メイです。

手塚治虫『人間昆虫記』を読みました。





手塚のファム・ファタールモノはいくつかある。その中でも、本作『人間昆虫記』がはじめて読んだという思い入れもあって一番好きだ。

女優の十村十枝子、本名臼場かげりが芥川賞を受賞するニュースが流れる中、同姓同名の別人、臼場かげりが首を吊って亡くなる。十枝子の受賞作は、かげりの構想していた小説を盗んで書かれたものだった。

十枝子は同姓同名のかげりを絶望に陥れ、自死に至らしめた。亡くなった方のかげりの顔は描かれていない。十枝子は、本当の自分を殺して名声を得る。自殺からはじまる『人間昆虫記』は、まるでKendrick Lamarの『DAMN.』のようだ。冒頭から強烈に死の匂いが漂っている。

臼場かげり(ウスバカゲロウ)、蜂須賀、蟻川…と、昆虫をもじった登場人物たちの世界は、砂地のように渇いている。破滅していく男たちの流す血を呑み下すも、十枝子の飢えは消えない。これと対比されるのが、かつて十枝子の恋人であった水野だ。

十枝子は潤った水の世界を求め続ける。なぜ水なのか。擬似的な自殺は、彼女にとって洗礼、つまり転生だったのではなかったか。しかし、彼女の望みは叶わない。生贄をいくら捧げても同じだ。本作は神の不在を描いているに等しい。だからこそ、十枝子は水野=水の世界=真の洗礼を求めてやまない。

水野は十枝子と別れた後、彼女と瓜二つの女性・しじみと婚約する。しかし、しじみはかつて金山という男に性の道具にされた過去があり、身を崩して癌で亡くなる。

水野は金山を射殺し、しじみの復讐を果たす。自ら通報し、表世界から姿を消す。

十枝子にとって、水野としじみの物語は、擬似的な心中であった。十村十枝子の名に二本の十字架が偲ばれていることを示すように、2度目の洗礼を果たして、彼女もまた現実に見切りをつける。

蝋人形の母を燃やし、単身ギリシャに飛ぶ。十枝子は一人、舞台の上で孤独に震えたまま、物語はフェードアウトする。


『人間昆虫記』というタイトルは、当然、映画『にっぽん昆虫記』のパロディーであろう。手塚が今村昌平に影響を受けているとしたら、更に『人間蒸発』をかけ合わせたのかもしれない。

それはともかく、『人間昆虫記』は手塚自身を表しているように思えてならない。昆虫を治虫に置き換えれば、『人間治虫記』となる。「漫画の神様」と称された手塚の人間宣言、といったところか。

手塚のかつての盟友・福井栄一は、手塚の漫画を金稼ぎの道具だと強く批判した。『漫画家残酷物語』の一コマのようなエピソードだ。

思うに、福井のみならず、手塚はこのような批判を受け続けてきたのではないか。そして、映画や文学、他作家の漫画に影響を受け、手を替え品を替え、多作を貫く姿勢もまた、軽薄だと非難されたと想像するのは難くない。

ピュアに漫画やアニメを創作する自分と他者に非難される自身との乖離。複雑化し、歪んでいくポートレイトを露悪的に曝け出したのが『人間昆虫記』だ。

悪びれる様子もなく盗作を続け、芸名で生きる十枝子に、ペンネーム「治虫」の人格を背負い続けた自分自身を重ねる手塚。これはHIPHOPにおけるセルフ・ボースティングであり、自身のレプリゼントに等しい。

たとえば、「オレは音楽泥棒」とサンプリングとハスリングを重ねるMummy-D「俺はBicthかも」と嘯く5lack、「バカ日本人に俺らの分の年金も払わせる」と韓国人の負のイメージを演じてみせるMoment Joonらと、何ら変わらない手法だろう。


フィルムノワールを模した漫画は数多くある。その中で傑作になり得るのは、作家自身の痛みと愚かさを徹底的に告白した作品だけだ。

『人間昆虫記』を読んで、私は『緋色の街/スカーレット・ストリート』を思い出していた。情婦に絵画を盗作された日曜画家ーー彼の名はクリストファー・クロス。十字架だーーの転落を捉えた映画。そこには一瞬の輝きが生々しく映されていた。

本作の主人公は盗作する側の十枝子だ。この男女の転換に、私はフェミニズムよりも、キリストと聖母マリアを挿げ替えてしまう『沈黙』の一場面を思う。



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バイバイ。